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横浜市ってこんな街!
横浜市(よこはまし)は、関東地方南部、神奈川県の東部に位置する都市で、同県の県庁所在地。政令指定都市の一つであり、18の行政区を持つ。日本の市町村で人口が最も多い。また、神奈川県内の市町村で面積が最も広い。旧武蔵国と旧相模国の一部。
概要
横浜市は東京都心から南へ約30km、東京湾に面した神奈川県で最大の都市である。市政の中心地は関内地区(中区の関内駅周辺)で、市域の中央駅は横浜駅(西区)。経済活動の中心は関内地区から約3km北の横浜駅周辺地区と分断されており、両地区の中間に位置する横浜みなとみらい21地区(桜木町駅周辺)の開発を進めて、横浜都心の一体的発展を進めている。
市域は、鎌倉に鎌倉幕府が置かれた鎌倉時代から本格的に開発され始めた。江戸時代には江戸幕府が置かれた江戸に近いため、幕府直轄地や旗本領が大部分を占め、藩は小規模な六浦藩(金沢区)のみがおかれた。また、大きな港を持たない鎌倉幕府の海の玄関口として六浦湊(金沢区六浦)が、江戸湾(東京湾)内海交通の要衝として神奈川湊(神奈川宿、神奈川区神奈川)が、早くから栄えた。江戸時代末期には、神奈川沖・小柴(旧・六浦湊外周部)で締結された日米修好通商条約により、「神奈川」を開港場にすることが定められた。
実際には神奈川湊の対岸にある横浜村(現在の中区関内地区)に新たに港湾施設が建設され、短期間に国際港の体裁を整えた。1859年7月1日(旧暦:安政6年6月2日)に開かれた横浜港は「金港」とも呼ばれ、生糸貿易港、商業港、旅客港として、また工業港として急速に発展。横浜を日本の代表的な国際港湾都市へと発展させる礎となった。
1889年(明治22年)4月1日に市制が施行され、横浜市となった。市域の面積は、市制施行時には横浜港周辺の5.4 km² にすぎなかったが、6次にわたる拡張と埋立てにより437.38 km² (2006年)となっている。
1927年(昭和2年)の区制施行で市域は5区に分けられ、周辺町村の合併と区域の再編を経て、行政区の数は18区となっている。市制施行時の横浜市の人口は約12万人だったが、その後は第二次世界大戦中の一時期を除いて増加の一途をたどり、現在では約367万人となった。これは日本の市では最も多く、人口集中地区人口も東京特別区に次ぐ日本の第二都市である。1956年(昭和31年)には政令指定都市に、1988年(昭和63年)には業務核都市に指定された。
市域は比較的広大であり、環状2号線の内側が既成市街地とみなしていい。横浜都心は横浜駅周辺からみなとみらい21、関内、関外周辺を指す。そのほかの郊外区は首都圏への人口集中によるスプロール化した市街地が散在しており、都市基盤整備の推進が必要とされる。副都心として新横浜、上大岡、二俣川、鶴見、戸塚、港北ニュータウンがある。港北ニュータウンは横浜市の都市計画事業として都筑区を中心に発展し、横浜市営地下鉄ブルーラインやグリーンラインによって横浜都心や各鉄道網と結ばれている。多摩田園都市をはじめとした市内北西部は東京都心のベッドタウンとして開発されたため、鉄道網も東京からの放射線が軸となり、東京都心へ通勤通学人口が多い(詳細は後述)。
地理
市域は神奈川県の東部にあたり、東経139度43分31秒(鶴見区扇島)から139度27分52秒(瀬谷区目黒町)、北緯35度35分33秒(青葉区美しが丘西)から35度18分44秒(金沢区六浦南)に位置する[8]。東は東京湾に面し、北は川崎市、西は大和市・藤沢市・東京都町田市、南は鎌倉市・逗子市・横須賀市に接する。市域の面積は神奈川県の約18%を占め、県内の市町村で最も広い。
地形
市域の地形は、丘陵地、台地・段丘、低地、埋立地に分けられる。
丘陵地は、市域中央部よりやや西よりに分布し、市域を南北に縦断する。この丘陵地は保土ケ谷区・旭区などを流れる帷子川付近を境に、北側と南側で性質を異にする。北側の丘陵地は、多摩丘陵の南端に位置し、標高は60mから100mで北に向かって高くなっている。南側の丘陵地は、三浦半島に続く三浦丘陵の北端部を占め、標高は80mから160mで南に向かって高くなっている。南側の丘陵地の方が起伏も激しく、標高も高い。鎌倉市に山頂部を置く大平山をはじめとする通称「鎌倉アルプス」に続く峠部分が市内最高点(栄区上郷町、標高159.4m)であり、市内最高峰の大丸山(金沢区釜利谷町、標高156.8m)や円海山(磯子区峰町、標高153.3m)もこの南側の丘陵地に位置する。
台地・段丘は、丘陵地の東西にある。東側の台地は鶴見区の地名を取って下末吉台地と呼ばれ、標高は40mから60mで鶴見川付近まで続く。西側の台地は、相模野台地の東端にあたり、標高は30mから70mで南に向かって低くなっている。本牧付近で台地が海に突き出し、その南側は根岸湾と呼ばれる。横浜駅周辺も幕末まで袖ヶ浦と呼ばれる入り江だった。
低地には、丘陵地や台地を刻む河川の谷底低地と沿岸部の海岸低地とがある。谷底低地は鶴見川に沿って広がり、平坦な三角州性低地を形成する。また、海岸部には埋立地が造成され、海岸線はほとんどが人工化されている。金沢区の小さな入り江平潟湾は、鎌倉幕府が江戸湾側の海の玄関口とした天然の良港であった。島としては金沢区の野島(扇島・八景島は人工島)があり、野島海岸が横浜で唯一の自然海浜となった。
歴史
現市域各地の前史
市域には、およそ25か所の後期旧石器時代の遺跡が発見されている。縄文時代の遺跡は、都筑区の花見山遺跡など数多く見られる。中期までの弥生時代遺跡は少なく、中期後半以降は、都筑区の大塚・歳勝土遺跡など、方形周溝墓を伴う環濠集落が現れる。古墳の出現は4世紀の中期以降とされ、青葉区の稲荷前古墳群などはこの時代の遺跡である。
市域の地名に関する文献上の初出は、『日本書紀』の安閑天皇元年(534年)の条とされる。武蔵国に住む豪族が、橘花(たちばな。橘樹郡)、倉樔(くらす。後に久良(くら)郡、さらに久良岐(くらき)郡)ほか4か所を屯倉として献上したと記される。7世紀後半までに市域には、武蔵国橘樹郡、久良岐郡、都筑郡、相模国鎌倉郡が置かれた。都筑区の長者原遺跡(ちょうじゃっぱらいせき)は、8世紀に成立した都筑郡衙跡とされる。なお、都筑郡の名が見える最古の記録は、『万葉集』である。927年(延長5年)には、都筑郡の杉山神社が、式内社とされた。この杉山神社には論社がいくつかあり、位置は確定されていない。
市域は奈良時代以降、人口も増えて生産力を高めた。平安時代には各所の開発も進み、坂東八平氏や武蔵七党など、関東武士の力が蓄えられた。市域には、平子氏、榛谷(はんがや、はりがや)氏、稲毛氏、綴党(つづきとう)などの武士団が勢力を張った。今に残る弘明寺、宝生寺など、平安時代以前の建立とされる寺院は、これら有力武士団の支援を受けていたものと考えられる。
市域は、鎌倉に鎌倉幕府が開設された12世紀から本格的に開発が始まった。鶴見川や柏尾川などの河川流域では農業が発達し、13世紀前半には、現在の新横浜周辺地域にあたる小机郷鳥山(港北区小机町・鳥山町)から、多摩川・鶴見川周辺地域が、幕府によって大規模に開発された。また、東京湾に面する六浦湊(金沢区六浦)が鎌倉の玄関口として文化・交易・産業の中心地となり、中国大陸(南宋)との貿易(日宋貿易)や内湾の交易によって栄え、武士や商人・職人・宗教者などが多く集まりにぎわいをみせ、東海道に接して栄えた神奈川湊(神奈川区神奈川)とともに漁業と海運業の発達へと繋がっていった。
横浜の名の初出は、室町時代中期の1442年(嘉吉2年)の文献である。この年、平子氏の家臣と思われる市川季氏と比留間範数の両名が、石河宝金剛院(現、南区の宝生寺)に、横浜村の薬師堂免田畠を寄進する旨の文書が残されている。横浜村は武蔵国久良岐郡に属し、神奈川湊の対岸、現在では市政の中心街になっている関内地区(中区)にあたる地域にあった。
江戸幕府が置かれた17世紀以降は、東海道の宿場とされた神奈川宿、程ヶ谷宿(保土ヶ谷宿)、戸塚宿を中心に発展する。特に、神奈川湊を持つ神奈川宿が江戸湾(東京湾)内海交通の要衝の一つとして栄え、対する六浦湊は、歌川広重が金沢八景を浮世絵としたように、風光明媚な景勝地としての色合いを濃くしていった。なお、江戸時代末期までの横浜村は、前出二つの湊とは対照的に、戸数わずか100戸足らずの砂州上に形成された半農半漁の寒村であった。
神奈川開港と都市横浜の誕生・発展
横浜村の運命を一変させたのは、当時国交を持たなかったアメリカのマシュー・ペリー率いる黒船の来航であった。太平洋航路の拠点として、また、捕鯨の際の供給基地として日本の港を利用することを望んだアメリカ海軍の黒船一行は六浦藩小柴村沖(現在の金沢区八景島周辺)に無許可のまま2か月間投錨し、幕府の対応を待った後に横浜沖へと進み入り、その後幕府は横浜村に設営した応接所で外交交渉を行った。交渉の結果1854年(安政元年)に横浜村で日米和親条約が締結され、1858年(安政5年)には神奈川沖・小柴(現・八景島周辺)のポウハタン号上で日米修好通商条約が締結された。この通商条約に「神奈川」を開港するよう定めたことが、横浜の都市開発の発端となった。
幕府は、東海道に直結し当時既に栄えていた神奈川湊を避け、外国人居留地を遠ざけるため、対岸の横浜村を「神奈川在横浜」と称して開港地とした。横浜村には、短期間で居留地、深谷市在の笹井万太郎により波止場、運上所(税関)など国際港の体裁が整えられ、安政6年6月2日(新暦1859年7月1日)に横浜港は開港した。横浜市では、6月2日を開港記念日としている[12]。こうして、横浜は日本の玄関口の一つとなったことから、様々な文物をいち早く取り入れる国際色豊かな都市として発展し始めた。
横浜村は幕府が設置した運上所(税関)を境に、以南を外国人居留地(横浜居留地)、以北を日本人居住区とした。境界には関所が置かれ、関所から外国人居留地側を関内、以外を関外と呼んだ。外国人居留地には、イギリスやフランス、ドイツやアメリカを中心とした各国の外国商館がたち並んだ。今に残る横浜中華街は、外国人居留地の中に形成された中国人商館を起源とする。一方日本人居住地は横浜町と名付けて5区域に分割し、各区域に名主を置いて総年寄が町全体を統括した。明治6年、横浜町は第1区1番組に編入され、明治7年(1874年)6月14日大区小区制により第1大区1小区となり、1878年(明治11年)11月21日に郡区町村編制法に基づき、第1大区が横浜区となり、久良岐郡から分離して横浜区長が管轄することとされた。そして、1889年(明治22年)4月1日、市制が施行されると同時に横浜区は市となり、横浜市が誕生した。当時の市域面積は、横浜港周辺の5.4 km²。面積は狭いものの、市制施行当時、すでに戸数27,209戸、人口121,985人(1889年末時点)に達した。その後、関内地区は市政と商業の中心地として発展する。
開港当初の横浜港には、東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)が設置され、東西波止場はその形から「象の鼻」と呼ばれた。象の鼻は、現在の大さん橋の付け根部分にあたる。ここでの貿易は、生糸、茶、海産物が輸出され、絹織物、毛織物が輸入された。明治5年9月12日(1872年10月14日)には、新橋(後の汐留駅。現在は廃止)と横浜(現在の桜木町駅)をつなぐ鉄道が開業し、新橋・横浜それぞれの会場で盛大に開業式典が執り行われた。同年には、神奈川駅(現在の横浜駅近傍)と鶴見駅も開設されている。当時、生糸貿易の主導権は外国商館にあった。そのため、横浜商人と呼ばれた日本人貿易商は、1873年(明治6年)には生糸改会社を設立して競争力を高め、1881年(明治14年)には生糸荷預所を設立して生糸貿易の主導権確立に努めた。また、横浜商人たちは、県営水道の設置(1887年(明治20年))、横浜共同電灯会社の設立(1890年(明治23年))、十全病院の設立(1891年(明治24年))、生糸検査所、商業会議所の設立(1895年(明治28年))など、都市基盤の整備と商業の発達に大きく寄与した。
1909年(明治42年)には開港50周年を迎え、この年の7月1日[13] から3日間にわたって、横浜開港50年祭と銘打った数々の記念行事が催され、「全市は殆ど家族打連れて外出せしやの観あり」と伝えられた[14]。できたばかりの新港埠頭で行われた式典では、森鴎外の作詞による横浜市歌が、市内小学生の合唱によって初めて披露され、各国艦船は祝砲を放った。また、このとき、市章の「浜菱」が制定され、市民の寄付による開港記念横浜会館(1917年(大正6年)竣工。現・横浜市開港記念会館、ジャックの塔)の建設が計画されるなど、市制施行20周年とあわせて盛大に祝われた。大正時代に入ると、鶴見川河口の埋立が始まって京浜工業地帯が形成され始め、横浜港は工業港としての性格をも持ち始めることとなる。
震災と戦災・接収の時代
1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災(大正関東地震)では、横浜港、関内を始め、市内全域で甚大な被害を受けた。東京より震源に近くほぼ直下型地震の直撃を受けた横浜市内は特に壊滅的な被害を受け[15]、各国領事館の建物はすべて倒壊し、山手(横浜)地区の洋館群も壊滅的被害を受け、港湾機能・対外貿易都市としての機能は完全にマヒした。その後、震災復興事業により、日本大通りの拡幅、山下公園の造成、横浜三塔に数えられる神奈川県庁舎(キングの塔)や横浜税関庁舎(クイーンの塔)の建設などが行われ、1929年(昭和4年)にはほぼ旧状に復した。
昭和時代に入り、1926年(昭和2年)4月に第3次市域拡張が行われ、同年10月には区制が施行されて、鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷区、磯子区の5区が置かれた。以降も第6次まで続く市域拡張(1939年(昭和14年))と東京湾岸の埋立により市域は拡大し、市域面積は437.38 km²(2006年(平成18年))、行政区の数は18区となっている。1930年(昭和5年)前後には、現在山下公園に係留されている氷川丸など、豪華客船の就航が相次ぎ、横浜港は太平洋航路の乗船地として、客船黄金時代の一翼を担った。また、この頃の横浜港は、生糸貿易港から工業港へと変貌し、輸出、輸入とも、機械類・金属製品、鉄鋼の割合が高まった。この傾向は、第二次世界大戦中の軍需生産期、戦後の高度経済成長期を経て、より強まっていった。
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲では、磯子区から鶴見区に至る沿岸部が焼き尽くされ、中区、西区の中心市街地は壊滅した。同年8月の終戦によりイギリス軍やアメリカ軍、ソビエト連邦軍を中心とした連合国軍が進駐し、横浜の中心市街地と横浜港は接収され、都市機能は麻痺した。連合国軍は、横浜税関ビルに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ、後に東京の第一生命ビルに移転)と太平洋陸軍総司令部(AFPAC)を置き、軍事拠点とした。空襲とそれに引き続く接収により、横浜の復興は大幅に遅れた。
1950年(昭和25年)、横浜国際港都建設法が制定され、復興に向けた取り組みが本格化する。1951年(昭和26年)には、対日講和条約が締結され日本の連合国による占領体制が終わり、新たに市長となった実業家で元貴族院議員の平沼亮三の下、接収解除に向けて動き始めた。また、この年には、横浜港の管理が国から市に移管された。条約が発効した翌1952年(昭和27年)以降、大桟橋や山下公園などが次々と接収解除された。1957年(昭和32年)には横浜国際港都建設総合基幹計画が決定され、今日に至るまでの都市計画の骨子となった。なお市域には475万m²余の在日米軍施設がある(2006年(平成18年)1月1日現在)。
戦後の発展 [編集]
1956年(昭和31年)9月1日、制度の開始とともに、政令指定都市に指定される。この頃から、相模鉄道を中心とした横浜駅西口の開発が始められた。1959年(昭和34年)に行われた開港100周年記念祭では、横浜公園平和野球場(現・横浜スタジアム)で、横浜出身の美空ひばりや草笛光子が3万人の観客を前に歌った。1964年(昭和39年)5月には根岸線(桜木町 – 磯子)が開通し、同年10月には東海道新幹線の開業に伴い、横浜線との交点に新横浜駅が開設された。横浜駅西口地下街が完成したのもこの年で、横浜駅西口は急速に発展し始めた。また、1960年代後半(昭和40年代)には中区の元町商店街が活況を呈し、元町ブランドで固めた山手の女子高生たちのファッションは、後に1970年代後半(昭和50年代)のハマトラ(横浜トラディショナル・ファッション)ブームへとつながっていく。
1963年(昭和38年)、日本社会党の衆議院議員であった飛鳥田一雄が市長となり、「革新首長」のリーダー的存在となった。1965年(昭和40年)1月、飛鳥田市政下、横浜市六大事業と呼ばれる都市計画プロジェクトに着手した。これは、(1)横浜みなとみらい21に代表される都心部強化、(2)金沢地先埋立事業による中小企業の集約化、(3)港北ニュータウンの建設によるスプロール現象の抑制と良質な住宅街の提供、(4)横浜市営地下鉄である高速鉄道建設事業、(5)高速道路建設事業、(6)横浜ベイブリッジ建設の6事業からなり、都市基盤の整備と中枢管理機能の充実を図るものである。
まず、高速道路建設に取りかかり、1968年(昭和43年)には神奈川県道高速横浜羽田空港線(浅田 – 東神奈川)が開通する。1972年(昭和47年)には横浜市営地下鉄(上大岡駅 – 伊勢佐木長者町駅)が開通した。また、1979年には横浜横須賀道路(日野―朝比奈間が開通し、1981年には狩場―日野間を、1982年には朝比奈―逗子間と逗子―衣笠間を供用開始した。
1977年(昭和52年)には金沢地先埋立が完成し、1990年(平成2年)に大黒埠頭の埋立(第2期)が完成すると、横浜の東京湾沿岸における大規模埋立事業は一段落した。日本社会党委員長として国政に復帰した飛鳥田のあとを受けて、1978年(昭和53年)に市長となった細郷道一も、六大事業の推進に力を注いだ。1980年(昭和55年)には港北ニュータウンの入居が始まり、1985年(昭和60年)には人口が300万人を超えた。
1989年(平成元年)、市制100年と開港130年を記念して、横浜博覧会が開催された。同年には横浜ベイブリッジも開通し、1994年(平成6年)の鶴見つばさ橋開通とあわせて、首都高速湾岸線の整備・延伸が進んだ。1990年(平成2年)、急逝した細郷のあとを引き継いで市長となった高秀秀信は、六大事業の中心となる都心部強化、横浜駅周辺地区と関内地区の間をつなぐ横浜みなとみらい21地区の整備を本格化させた。1993年(平成5年)には、みなとみらい21地区のシンボルとなる横浜ランドマークタワーが完成した。
高秀は、六大事業の継続に加え、港北ニュータウンや新横浜等における横浜市北部での新規事業を追加した。1999年(平成11年)よこはま動物園ズーラシアが開園し、1998年(平成10年)に完成した横浜国際総合競技場(現在の日産スタジアム)と横浜国際プールは高秀市政の象徴となった。2002年(平成14年)には、国際総合競技場で2002 FIFAワールドカップの決勝が行われ、国際プールではパンパシフィック水泳選手権が行われた。また、2002年(平成14年)には、横浜港大さん橋国際客船ターミナルの建替が完成した。横浜国際港都建設法に基く国際港都建設事業である横浜市内の都市計画道路は戦後進捗が遅れていたが、高秀市政期に事業化された区間も多く、一定の進歩が見られた。
2002年(平成14年)、高秀と争って新たに市長となった中田宏は財政改革、行政改革、医療と教育の民営化を軸にした政策を打ち出した。主な政策としては家庭廃棄物の分別収集、外郭団体の見直しや統廃合、公立病院や保育園の民営化、交通局や水道局の構造改革、新緑税導入、横浜都心の立地企業増加に向けた企業立地促進条例の制定、横浜港への客船寄港促進等を行い、2008年度(平成20年度)には、1961年度(昭和36年度)以来47年ぶりに、普通交付税の不交付団体となる等成果に現れた。また国際コンベンションの誘致も積極的に行い2010年日本APECの開催誘致を行った。一方では都市計画道路整備の予算が減少し事業速度の低下がみられた。
2009年(平成21年)、開港150周年・市制施行120周年を迎え、横浜市などが設立した財団法人横浜開港150周年協会が中心となって、様々な記念事業・祝祭イベントが行われた[20][21]。同年4月28日から9月27日まで横浜みなとみらい21新港地区で開国博Y150が始まり(7月4日から9月27日まで、ヒルサイドエリア(横浜動物の森公園)でも開催)、4月19日には横浜動物の森公園で第20回全国「みどりの愛護」のつどいが開催された。5月31日にはパシフィコ横浜国立大ホールにおいて、天皇皇后両陛下、内閣総理大臣など三権の長らを招いて、横浜開港150周年記念式典が挙行された[23]。このほか、開港150周年を記念したプロジェクトとして、「象の鼻」地区を中心とした広場や緑地の整備[24]、「開港150周年の森」づくり、横浜マリンタワーの再整備、横浜市立横浜サイエンスフロンティア高等学校の開校 などが実施された。また、同年7月に任期途中で中田が市長職を辞任した。
第45回衆議院議員総選挙と同じ同年8月30日に行われた市長選挙で、東京日産自動車販売代表取締役社長の林文子が新たな市長に選ばれた。
2010年(平成22年)11月13日~14日に、2010年日本APECの参加国首脳会議の会場になる。
本日ご成約頂きましたお客様の最寄り駅は「東京駅」
丸の内・八重洲辺りでコピー機のリース・複合機のリースをご検討の会社様がありましたら、
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東京駅(とうきょうえき)は、東京都千代田区丸の内一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。
概要
東京の表玄関とも言うべきターミナル駅で、プラットホームの数は日本一多く、在来線が地上5面10線と地下4面8線の合計9面18線、新幹線が地上5面10線、地下鉄は地下1面2線を有しており、面積は東京ドーム約3.6個分に相当する。赤レンガ造りの丸の内口駅舎は1914年竣工で、国の重要文化財に指定されている。「関東の駅百選」認定駅でもある。現在、北海道[※ 1]と北陸地方(新潟県を除く)[※ 2]、離島でレールが繋がっていない沖縄地方以外の各地方へ(から)の列車が発着している。
当駅にはJRの新幹線と在来線各線(後述)、東京地下鉄の丸ノ内線が乗り入れている。地下鉄丸ノ内線の駅には「M 17」の駅番号が与えられている。また、当駅を発着するJR線と東京地下鉄大手町駅間との連絡運輸は東西線のみ行われている[1]。
JRの駅に乗り入れている路線は、正式な路線名称上は、新幹線が東海道新幹線と東北新幹線の2路線、在来線が東海道本線・東北本線・総武本線・京葉線の4路線であり(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」を参照)、東海道本線を当駅の在来線における所属線としている[2]。管轄会社は東海道新幹線がJR東海、それ以外の路線がJR東日本となっている。これら各路線はすべて当駅を起点としており、当駅構内にはこれら各線の0キロポストが設置されている。ただし旅客案内では後述の運転系統名称が使用される。「東北(本)線」は案内上では上野駅発着の長・中距離列車を意味するため、当駅では現在用いられていない。なお中央本線についてもかつては当駅が正式な起点であったが、当駅 – 神田間における東北本線との二重戸籍区間を解消するため、JRへの移行に伴い中央本線は神田駅が起点とされた。ただし、現在でも0キロポストは設置されている。
建設当時の東京駅
当駅の位置は、江戸時代からの繁華街である京橋側ではなく、建設当時はまだ野原だった丸の内側に建設された。皇居の正面に設定され、丸の内口の中央に皇室専用貴賓出入口が造られたことから分かるように、国家の象徴的な位置付けであった。なお、現在の行幸通りはまだ皇居前広場まで開通していなかった。
駅本屋は、辰野金吾と葛西萬司が設計した深谷市産の鉄筋レンガ造り3階建て総建坪9,545m²・長さ330mの豪壮華麗な洋式建築である。1914年の開業年は第一次世界大戦の開戦の年でもあり、中国・青島周辺のドイツ租借地を占領した陸軍の司令官神尾光臣中将が凱旋して皇居に参内するイベントに合わせて開業式を行った。アムステルダム中央駅は当駅を建設する際のモデルになったという俗説があるが根拠は薄弱であり、1988年以降に藤森照信らを始めとする西洋建築研究者により設計者の系譜や建築様式の両面から、現在ではほぼ否定されている。当時は南北にドーム状の屋根があり、また丸の内南口が乗車口、丸の内北口が降車口と分かれていた。(以降は歴史・年表を参照のこと)
将来の計画
東北新幹線の当駅延伸の際に撤去された東北本線列車線の秋葉原 – 当駅間を再建させ、宇都宮線(東北本線)・高崎線・常磐線(快速)の各列車が当駅へ乗り入れるとともに、一部列車が東海道本線と直通運転する計画があると発表されている(東北縦貫線計画)。当初は2009年度の完成を予定していたが、計画より遅れ、2013年度の完成を予定している。実現すれば、1973年以来の南北直通列車の復活となる。
首都圏新都市鉄道のつくばエクスプレスが大深度地下を利用して秋葉原駅から当駅に乗り入れる計画がある。駅は丸の内ビルディング直下に建設される予定である。同線は1985年に当時の運輸省運輸政策審議会答申第7号が当駅起点での整備を求めながらも、採算面の問題で秋葉原駅始発へ変更された経緯がある。 大深度地下利用による京葉線の新宿駅経由三鷹駅までの延伸を行い、中央線と直通運転させる延長線をともに2015年までに整備着手するのが適当であるとした。 京成押上線と京急線をつなぐ浅草線短絡新線により、成田空港から30分台、羽田空港から20分台のアクセスを実現させる構想がある。この計画では京急と京成の通勤電車も乗り入れる予定である。
利用状況
東京の表玄関ともいうべきターミナル駅だが、JR東日本での乗車人員は第5位で、JR全体では第6位である。
それぞれの会社の利用状況は下記の通り。
JR東日本 – 1日平均乗車人員は381,704人(2010年度)[9]で、同社の駅の中では第5位である(1位は新宿駅)[9]。 JR東海 – 1日平均乗車人員は92,205人(2006年度)[10]で、同社の駅(402駅)では第2位(1位は名古屋駅、3位は新大阪駅)だが、東海道新幹線の単独駅の中では第1位である。 東京地下鉄 – 1日平均乗降人員は156,008人(2010年度)[11]で、同社の駅(179駅)の中では第13位である(1位は池袋駅)。
近年の1日平均乗車人員推移は以下の表の通り。
駅周辺
当駅周辺は日本を代表するビジネス街となっており、昼間は人通りが多いが、夜間は少ない。JRの駅を中心とする以下の地下鉄各駅は概ね半径1km程度範囲内にあるので、状況によっては徒歩での移動の方が早く到達する場合もある。
大手町駅 (丸ノ内線・東西線・千代田線・半蔵門線・都営三田線) 八丁堀駅 (京葉線・日比谷線) 日本橋駅 (銀座線・東西線・都営浅草線) 三越前駅 (半蔵門線(銀座線のりばへは遠い)) 新日本橋駅 (総武線(快速)) 二重橋前駅 (千代田線(行幸地下通路で連絡)) 日比谷駅 (日比谷線・千代田線・都営三田線(行幸地下通路で連絡)) 有楽町駅 (山手線・京浜東北線・有楽町線) 銀座一丁目駅 (有楽町線) 京橋駅 (銀座線) 宝町駅 (都営浅草線)
丸の内口
西側の丸の内地区には、丸の内北口(旧称・降車口)、丸の内中央口(同・中央口)、丸の内南口(同・乗車口)がある。日本を代表する歴史的なビジネス街であると同時に、2000年代には丸の内ビルディング(丸ビル)、新丸の内ビルディング(新丸ビル)などの複合商業施設のオープンが相次ぎ、一躍観光スポットともなった。
駅の南にあった東京中央郵便局は、日本を代表する郵便局で、鉄道郵便輸送が日本の郵便を支えていた時代には当駅と同局の間に建設された地下通路を使って多くの郵便物が輸送された。この扱いは1978年に終了したが、その後も駅構内部分の地下通路は車椅子利用者などのために利用されている。
かつては日本国有鉄道本社ビル(1997年までは東日本旅客鉄道株式会社本社ビル)もあり、全国に鉄道網を張り巡らせた国鉄(建造当時は鉄道省)のシンボルとなっていたが、国鉄分割民営化に伴う長期債務返済のために売却され、その跡地には旧JTBビルと合わせて複合商業施設の丸の内オアゾが開業している。
丸の内中央口から皇居に向かって行幸通りと行幸地下通路が伸びていて、丸の内中央口からも皇居が見える。
クリスマスから元日までのシーズンには東京ミレナリオのイルミネーションが有楽町駅方面まで点灯されていたが、丸の内口工事のため2005年末の点灯をもって終了し、現在はこれに類似したイベントが開催されている。
京葉地下丸の内口からJR有楽町駅、千代田線二重橋前駅、有楽町線有楽町駅(東京国際フォーラム経由)、都営三田線・日比谷線日比谷駅(東京国際フォーラム・地下鉄有楽町駅経由)は比較的近接している。
八重洲口
商社など主要企業が軒を連ねる京橋・日本橋の玄関口であると同時に、2007年11月の大丸東京店の全面リニューアル、2008年3月の東京キャラクターストリート開業などにより商業スポットとしても注目されるようになった。 東京駅東側に隣接するエリアの住所は千代田区丸の内であるが、一般的に東京駅八重洲口・日本橋口に隣接するエリア全体を「八重洲」と呼ぶことが多い。
八重洲口エリアは地下街が発達しており、東京ステーション開発株式会社が運営する東京駅一番街、八重洲地下街株式会社が運営する八重洲地下街などがある。駅に隣接し、東京キャラクターストリート、東京ラーメンストリートなどを有する地下街が東京駅一番街、外堀通り・八重洲通りの地下に広がるのが八重洲地下街である。
八重洲北口付近(北側自由通路付近)には、黒塀横丁(地階)・キッチンストリート(1階)・北町ほろよい通り(2階)・ごちそうプラザ(2階)、八重洲南口付近には東京ラーメンストリート(地階)などの飲食店街がある。2001年に鉄道会館が開業し、ラーメン店、中華料理店などが入っていたラーメン激戦区東京編(八重洲南口・地階)はすでに閉鎖されている。
八重洲南口手前にはJR東日本リテールネットが営業するコンビニエンスストア「NEWDAYS八重洲南口店」がある。この店舗は「日本一忙しいコンビニエンスストア」として週刊誌『AERA』にも掲載されたことがある。
八重洲口には、南口に併設されたJRバスのハイウェイバスのりばをはじめとして、周辺に複数の高速バスの発着拠点が存在する→「東京駅バスのりば」を参照。
八重洲口の主な商業施設
大丸東京店 東京駅一番街 東京キャラクターストリート(東京駅一番街内) 東京ラーメンストリート(東京駅一番街内) 八重洲地下街 キラピカ通り グランアージュ
日本橋口
JRの駅の北側にあり、永代通りに面している。正面ロータリーは長距離路線バスの降車場となっており、その先、永代通りの地下は東京地下鉄東西線の大手町駅となっている。日本橋口には東京ステーションシティの開発第一弾としてサピアタワー(地上35階・地下4階)が2007年3月に竣工した。
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本日ご成約頂きましたお客様の最寄り駅は「東武野田線」「運河駅」
初めて降りましたがちょっと田舎な感じのいい町でした。
千葉でコピー機のリース・複合機のリースをご検討の会社様がありましたら、是非当社にも声を掛けてください!
さて運河駅ってこんな駅。。
運河駅
運河駅(うんがえき)は、千葉県流山市東深井にある東武鉄道野田線の駅である。駅名は、近くを流れる利根運河に由来している。
駅構造
上り単式ホーム、下り島式ホームの計2面3線を有する地上駅。駅舎は上り大宮方面ホーム側に設置。
下り柏方面ホームとは地下道により連絡している。かつては大宮方面側ホームの末端に構内踏切が設置されていた。
トイレは大宮方面ホーム側にあり、バリアフリー対応の多目的トイレを併設する。
柏方面から続く複線区間は当駅までで、当駅から春日部駅までは単線区間となる。
当駅 – 野田市駅間には複線対応の用地があるが、この区間の複線化事業は長い間未定であった。
しかし、一部区間においての高架化・複線化が計画されている。
駅周辺の土地区画整理事業の案も20世紀末頃から出ているが、
周辺の住民意見、用地買収に問題があり、いまだに具体化はされていない。
池袋にある「セレンディップ」ですが、多摩地区にもお客様が結構あります。
立川・多摩地区でコピー機のリース・複合機のリースをご検討の会社様がありましたら、是非当社にも声を掛けてください!
意外としらない立川のこと
概要
東京都の島嶼部を除く地域の中央よりやや西側の、多摩川中流左岸武蔵野台地上に位置する。
JR中央本線、南武線、青梅線が乗り入れ、多摩地区最大の乗車人員数の立川駅と、多摩地区を南北に結ぶ多摩都市モノレール線の立川北駅、立川南駅があり、400万人の人口を有する東京三多摩地区の中心都市として、商業施設やオフィスが集積している。多摩地域では町田駅、吉祥寺駅、八王子駅と並び駅前が発展しているが、モノレールとオフィス街を有する立川駅は近未来都市のような様相となっている。2001年の「東京の新しい都市づくりビジョン」で核都市に指定されている。立川駅は、中央線特別快速電車で東京駅から40分強、新宿駅からは30分ほどである。
江戸時代までは甲州街道および五日市街道沿いの村落に過ぎなかった。明治となって、板谷元右衛門の大規模な土地の寄付による誘致運動によって、1889年に甲武鉄道が新宿-立川間で開業し、これ以降、立川市域南部の立川駅がターミナル駅となった。1922年(大正11年)陸軍立川飛行場が設置されたことによって商業・工業の集積が進んだことが、今日の繁栄の礎となっている。飲食産業はここ数年で町田市と共に成長している。 一方で農業も盛んでウド(独活)は立川の特産品である。
内閣総理大臣を本部長とする緊急災害対策本部が設置可能な立川広域防災基地を有す防災都市である。多極分散型国土形成促進法(1988年制定)において業務核都市とされ、旧文部省、旧自治省の5つの研究・研修機関の立川への移転が行われたうえ、東京地裁立川支部なども八王子から移転しており、多数の国の機関を有する三多摩地区の中核都市となっている。総数109点のパブリック・アートが設置された商業地域ファーレ立川を有する文化・アートの街でもある。
地理
武蔵野台地上にあり、市域のほとんどは平地であるが、南部の多摩川沿いに立川崖線、北東端に国分寺崖線が見られる。標高は北部から南部へゆるやかに低くなっている。南北に残堀川が流れており、その旧河道にほぼ沿う形で立川断層が走っている。
歴史
地名の由来
2通りの説がある。
武蔵国府が現在の府中市にあった時代、その府中宿付近より見て現在の多摩市付近で東西に連なる山を多摩の横山と呼び、その多摩の横山から見て多摩川が縦方向(南北)に流れている近辺(現在の立川、日野近辺)を立の河と呼んでいた。立の河が次第に変化して現在の立川になったと言われている。 地方豪族立川氏(たちかわ・し)が、現在の普済寺に城をつくったことから立川(たちかわ)になったと言われている。
なお、立川付近の多摩川の河原は立河原(たちかわのはら/たちがわら)と呼称(上記いずれの説に由来するのかは不明)され、後に合戦も行われている。
セレンディップは東京都豊島区池袋にあります。
そして日本の代表的なオフィス街の新宿はある意味隣町ですね。
新宿でコピー機のリース・複合機のリースをご検討の会社様がありましたら、是非当社にも声を掛けてください!
さて新宿ってこんな街。。
新宿(しんじゅく)は東京都新宿区南西部にある新宿駅を中心とした繁華街であり、同地区の町名でもある。渋谷、池袋と並ぶ3大副都心の一つであり、日本を代表する繁華街・オフィス街の一つである。町名としては新宿一丁目から新宿七丁目が存在する。
西新宿に東京都庁が移転してきてからは西新宿をさして特に「新都心」とも呼ぶこともある。その名称はかつての甲州街道の宿場町・内藤新宿(ないとうしんじゅく)に由来している。
地名の由来
江戸時代、甲州街道は起点である日本橋から最初の宿駅である高井戸まで4里(約16km)という距離であり、起点と宿場までの間が長いため多くの旅人が難儀していた。
そこで1698年(元禄11年)、この地に新しい宿駅が設けられた。当時の信州高遠藩主であった内藤氏の中屋敷があったため、内藤新宿と称したことに起因している。この中屋敷跡が現在の新宿御苑であり、御苑のある地名も「内藤町」となっている。
なお、東京方言における「新宿」の本来の発音は「しんじく」であるとされていた。
歴史
宿場開設以前
この地と内藤氏とのつながりは、豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされ、徳川家康が江戸に入府する直前の1590年(天正18年)7月にさかのぼる。三河時代より徳川家康の小姓として仕えていた内藤清成は、家康の入府に先立ち後北条氏残党に対する警備のため、鉄砲隊を率いて甲州街道(国府道)と鎌倉街道が交差していた現在の新宿二丁目付近に陣を敷いた。
この功が認められ、清成は付近一帯を拝領し中屋敷(上屋敷は神田小川町、下屋敷は下渋谷にあったという)を構えた。なお、清成が率いていた鉄砲隊は、1602年(慶長7年)に伊賀組鉄砲百人組として大久保に配置され、百人町の名のもととなっている。
この拝領に際しては、家康が「馬が一息で駆け巡るだけの範囲を与える」と伝えたため、清成は馬に乗り榎の大木を中心に東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保におよぶ範囲を駆け、その馬はついに倒れて、まもなく死んでしまったというエピソードがある。
宿場開設後
江戸時代、甲州街道は江戸から甲府までの主要街道として整備されたが、第一の宿場は高井戸であり、距離が長く、旅人は難儀をしたという。そのうち、現在の新宿二丁目近辺に人家ができ、1625年(寛永2年)には住民の願いにより太宗寺門前の町屋ができ、これを内藤宿と呼ぶようになった。「宿」とはいっても、正規の「宿場」ではなく、甲州街道や成木街道(現:青梅街道)を利用する人馬が休憩所として利用していたので、そのように呼び習わすこととなったという。
1698年(元禄11年)、甲州街道における新たな宿場の必要性や、行楽地づくりを念頭に、当時の浅草安倍川町の名主であった喜兵衛ほか同志4人が5600両の上納とともに宿場開設を願い出て、翌年、内藤家の中屋敷の敷地を一部利用して宿場が開設される。宿場開設を申し出た喜兵衛は高松喜六と名乗り、高松家は代々新宿の名主を務めた。
この新宿は、玉川上水の水番所が置かれていた四谷大木戸から西、現在の新宿駅付近までの街道沿いに広がっていた。なお、新宿には青梅街道と甲州街道の分岐点である追分(新宿追分・現在の新宿三丁目交差点付近)があり、現在でも地名などに残っている。
その後内藤新宿は、品川(東海道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)と併せて四宿(ししゅく)と呼ばれ、江戸の新たな行楽地としても発展し、岡場所(非公認の売春宿)などが繁盛して、「四谷新宿馬の糞の中であやめ咲くとはしほらしい」(馬の糞は活発な馬の往来、あやめは飯盛女・遊女を意味する)と狂歌に詠われている。これらが災いし、1718年(享保3年)に風紀上の理由から一時廃駅の憂い目にあうも、1772年(明和9年)には復活している。歓楽街としての新宿の原型は、この時代に既にあったといえるだろう。
このころ太宗寺は、江戸六地蔵のひとつに数えられ、庶民の信仰を集めていた。また、成覚寺は遊女などの投げ込み寺であった。
明治以後
江戸時代の岡場所は、明治以降は遊郭となり、戦後の公娼廃止後もいわゆる赤線地帯として1958年(昭和33年)の売春防止法施行まで続いた。
また、1887年(明治20年)に日本鉄道品川線新宿駅が宿場のはずれ角筈(つのはず)に作られる。その後、大正期には新宿は西へと広がった東京市街地の交通が集中するようになり、伊勢丹デパートや中村屋のカリー、高野商店の果物(フルーツパーラー)といった名物をはじめ、映画館、カフェー、劇場などが集中し人々で賑わうようになる。現在の新宿三越の裏手界隈は飲食店などに混ざり、借家、アパート、下宿が多く生活の臭いが色濃く残る地域であった。
新宿は東京大空襲によって焼け野原と化したが、新宿駅周辺には戦後間もない頃に闇市が建ち並び、繁華街として復興の道を歩み始めた。空襲で焼け残った伊勢丹は一部を占領軍に接収された。現在では、日本有数の巨大繁華街として全国的にも認知され、東京における観光スポットの顔である。
1971年(昭和46年)頃までは、若者の街、若者文化の流行の発信地といえば、新宿だった。しかし、1973年(昭和48年)に渋谷にPARCOが開店したあたりから、徐々に若者文化の潮流が物志向へと大きく変化。その流れのイニシアティブは新宿から、渋谷または(原宿等含め)渋谷区全体へと移り変わっていく
地理
駅周辺
繁華街の集客人員は164万人(2002年(平成14年))に達しており、統計では日本一となっている[1]。また、1日の利用者数が約364万人(2007年(平成19年) 地下街で連結した西武新宿駅含む)を計上し世界一とされる新宿駅(ギネス・ワールド・レコーズ認定)を中心としているほか、徒歩圏の周辺駅も併せた『新宿エリア』の駅乗降者数は約403万人以上(2007年)[2]を計上するなど、昼夜にわたり人波が途絶えることはない。このほか、デパート販売額や商品販売額では日本で初めて1兆円を超えるなど、繁華街として巨大な商圏を形成している。
なお、繁華街として一般に「新宿」と称される範囲は、地名としては概ね新宿区新宿・西新宿・歌舞伎町などである。また、新宿駅新南口は渋谷区に位置するが、タカシマヤタイムズスクエアや小田急サザンタワーが渋谷区にあることを意識する人はほとんどいない。[要検証]
新宿駅東側
新宿駅の東側は老舗デパートや専門店・飲食店などが密集し、昼夜を問わず人の波が途絶えることはなく、銀座に次ぐ日本第二位の繁華街となっている。駅東口近くにあるスタジオアルタや中央東口の交番は、新宿でも屈指の待ち合わせ場所となっているが、特に夕方の終業時間になると著しく混雑する。三丁目の明治通り東方には新宿末廣亭という戦前から著名な寄席がある。既存の新宿武蔵野館、そして松竹、東映が映画館の再編成による改築で誕生させた新宿ピカデリーや新宿バルト9などシネコン・映画館もある。 伊勢丹、紀伊国屋書店、中村屋、新宿高野などの老舗が今も残る。なお、新宿の繁華街の東端には、新宿御苑があり、四季折々の移ろいを草木を通し楽しむことが出来る庭園として親しまれている。
新宿駅西側
新宿駅の西側は、1950年代までは西口には十二社池(じゅうにそういけ)といった大きな池もあり、戦前までは東京近郊の行楽地であった。そうしたことも関連し、1960年代までは東側に比べ長閑(のどか)で寂しい地域であった。しかし、このころ千代田区周辺の東京都心部に機能が集中していることが課題となり、新宿西口が副都心として位置づけられた。
1965年(昭和40年)には西口にあった淀橋浄水場が東村山市に移転し、その跡地に1971年(昭和46年)の京王プラザホテルを皮切りに超高層ビルが挙って建設され、後に新宿副都心と呼ばれるようになった。また東京都庁が1991年(平成3年)に有楽町からこの地に移転し、都心部に次ぐ商業集積地となった(この都庁移転以降、新都心と呼称される場合もある、ただし、青梅街道にある新都心歩道橋は都庁移転以前から存在する)。高層ビル近辺では1968年(昭和43年)に開園した新宿中央公園が都会のオアシスとして著名である。
駅に隣接する大型カメラ店や私鉄デパートなどの存在も欠かすことも出来ない。
なお、西口のやや北寄りには、太平洋戦争後すぐに形成された闇市を起源とする思い出横丁が存在する。ここには「赤ちょうちん」と呼ばれる小規模な居酒屋が密集し、変化の著しい新宿の町並みのなかでも戦災復興や昭和の時代の臭いを残している。そのすぐ北にはJR線の高架橋、通称・大ガードがある、下を走る青梅街道、靖国通りと小滝橋通りの交差する大ガード交差点周辺は交通の要衝のため夜間は著しく混雑する。
新宿駅北側
新宿駅の北側、歌舞伎町方面は飲食店やホテルが軒を連ねて巨大な歓楽街を形成している。いわゆる新宿ゴールデン街も歌舞伎町の中にある。西武新宿駅が至近である。一方、線路の西側である小滝橋通り周辺には、輸入、中古レコード店やライブハウスなどが目立ち、新宿駅の他の地域に比べれば人の往来は少なめである。
新宿駅南側
新宿駅の南側に面す新宿四丁目は、かって四谷旭町と言う住所で作家の林芙美子が下宿していた場所として知られる。入り組んだ路地に民家や旅館、個人商店などが都市開発の煽(あお)りを受けビルに阻まれる様に取り残されている雑多な地域であったが平成10年前後の再開発により、周辺には超高層ビルや大型デパートなどが次々と建設された。新宿タカシマヤから駅構内に直結するペデストリアンデッキ(歩道橋)が整備され、新たな人の流れを生み出している。戦後、満州からの引き揚げ者が餃子屋を多く営んでいた。 アルタと同様目印となる巨大ビジョン(FLAGSビジョン)がある駅南口、東南口は階段と周囲が一新されFLAGSのオープン以降は待ち合わせの人などで大変混雑するようになった。夕方から夜にかけてはアマチュア音楽家による演奏が行われ、家路を急ぐ人々などの注意を惹いている。吉本興業の芸人らが出演する劇場「ルミネtheよしもと」もある。なお、タカシマヤを含む甲州街道の南側は、新宿四丁目の一部を除き渋谷区千駄ヶ谷と代々木に属する。
なお、京王デパートと小田急デパートの間には「モザイク通り」という遊歩道があり、様々な店舗が軒を連ねている。西口から南口側へ抜けるにはここを通れば最短で便利である。
その他の周辺地域
街並みは新宿駅南口及び新南口至近の渋谷区代々木、千駄ヶ谷辺りにも波及している。また、近隣の中野坂上、初台などの開発は新宿の地続き的な発展として捉えていいだろう。
池袋にある「セレンディップ」ですが、設置台数が二番目に多いのが銀座です。
銀座でコピー機のリース・複合機のリースをご検討の会社様がありましたら、是非当社にも声を掛けてください!
意外としらない銀座のこと
概要
日本最大の繁華街であり下町の一つでもある。東京屈指の高級な商店街として、日本国外においても戦前よりフジヤマ、ゲイシャ、ミキモト、赤坂などとともに知られる。「銀座」の名は一種のブランドになっており全国各地の商店街には「○○銀座」と呼ばれる所がそこかしこに見受けられる。地名の由来は江戸時代の貨幣鋳造および銀地金の売買を行った銀座役所であるが、役所が1800年に蛎殻町に移転して以来、元の「新両替町」の名称に代わり「銀座」として親しまれるようになり、この地名が定着した。また、銀座四丁目交差点周辺は商業地として日本一地価の高い場所としても知られる。
地理
東京都中央区の西部に位置し、西を千代田区、南を港区に接する。北側より銀座一丁目から銀座八丁目まで存在する。また、江戸城外堀を埋め立てた東京高速道路の1・2階部分は商店街となっているが、行政区画が未確定な部分もあり、俗に銀座九丁目・銀座西◎丁目地先などと呼ばれる。
街路に関しては、仙台、秋田、会津若松、駿府(静岡)、名古屋、大坂(大阪)、広島など多くの近世城下町の町人地と同じく、直交街路を基本としており、これは近隣の日本橋、京橋地区と同様である。
しかし、大阪の船場や名古屋の錦周辺、あるいは京都の四条室町周辺などと異なり、街区は正方形ではなく細長い短冊形となっている。これは、京都のうち豊臣秀吉による都市改造を受けた地域や、大阪の平野町や天満周辺、松山などと共通する。
また、街路網は北東から南西に向かう中央通りを中軸として設計されており、大阪、京都、名古屋、札幌のように東西南北の方位を基準とした構造を有していないばかりか、銀座における中央通りの軸線は、京橋、日本橋、神田における軸線と異なる方向を向いている。これは、徳川家康による当初の都市計画の際、江戸前島以来の微高地の尾根筋沿いに、地形に沿った主軸線として中央通りを設定し、そこから両側に向かう道路を設けることにより、効率的な排水の便を図ったものといわれる。
近代になってからの都市計画に基づきさらに整備が加えられている。関東大震災後、後藤新平による震災復興の都市計画における目玉として、中央通りの東側に、新たな北東-南西軸(東京全体の南北軸の一部)として昭和通りが設けられた。また、数寄屋橋から銀座四丁目交差点、歌舞伎座前を経て勝どき橋方面へ至る、北西-南東方向の主要な直交街路として晴海通りが大通りとして整備され、銀座街区の西側には外堀通りが整備された。
このような整備にも関わらず、銀座内部の街路は昔ながらのものであり、通りから通りへと抜ける路地が多く点在し銀座らしい空間を醸し出している。
地域の郵便番号は104-0061で統一されている。
区域
南東側を現在の首都高速都心環状線、その他を東京高速道路にぐるりと囲まれた地域である。かつては、東を三十間堀川、西を江戸城外堀、南を汐留川、北を京橋川に囲まれた人工の島であった。
昭和通りの南東に位置する地域は、かつて木挽町と呼ばれる地域だったが、三十間堀川の埋め立てにより銀座と地続きとなったことから銀座東と改名し、1960年代後半に銀座西と共に銀座に統合された。首都高速都心環状線を挟んだ地域も含めて東銀座駅を最寄りとする一帯は、一般的に東銀座と呼ばれている。
一方、数寄屋橋を中心とする地域はかつて銀座西という町名だったが、地下鉄丸ノ内線の西銀座駅(現在の銀座駅)があったことなどから、町名が銀座となった今でも西銀座の名を冠した施設も散在する(例:西銀座デパート・西銀座チャンスセンター・西銀座通り)。
この名残からか、第一勧業銀行の店舗で、銀座五丁目の店舗を銀座支店(と銀座通支店)、銀座一丁目の店舗を西銀座支店としていた。みずほ銀行発足後、前者は、銀座四丁目の富士銀行数寄屋橋支店(みずほ銀行数寄屋橋支店)所在地に移転の上、同支店とのブランチインブランチの後に統合し、現在は数寄屋橋富士ビルの建てかえに伴い、旧有楽町支店所在地に仮店舗を設置している。後者は、旧富士銀時代の銀座支店であった銀座中央支店に統合されている(このほか、第一勧銀時代の数寄屋橋支店がみずほ銀行銀座外堀通支店として銀座七丁目にあったが、銀座通支店に統合されている)。
区域・町名の変遷年表
1869年(明治2年)5月
江戸町名改正により新両替町と三十間堀西側等をあわせて銀座一丁目から銀座四丁目が起立。
当時の銀座一丁目から銀座三丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、観世通り、松屋通り、桜通り(東京高速道路)に囲まれた四角形、銀座四丁目は、東西南北をそれぞれ現在のあづま通り、観世通り、晴海通り、松屋通りに囲まれた四角形にあたる。
1930年(昭和5年)3月4日
区画整理により現在の晴海通り北側の4町域を銀座一丁目〜銀座四丁目に編入。また、現在の晴海通り南側の9町域を統合して銀座五丁目〜銀座八丁目とし、同時にこれら「銀座」地区と外堀に挟まれた18町域を統合して銀座西一丁目〜銀座西八丁目とした。
この時点での銀座一丁目〜銀座四丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、西五番街、晴海通り、桜通りに囲まれた四角形にあたる。また、当時の銀座五丁目〜銀座八丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、西五番街、御門通り、晴海通りに囲まれた四角形にあたる。「銀座西」は「銀座」と西側にある外堀に囲まれた地域。
1951年(昭和26年)8月1日
三十間堀川の埋め立てにより木挽町と陸続きになることから、この木挽町一丁目を銀座東一丁目(銀座東二丁目〜銀座東八丁目も同様)と改名した(埋め立ては1952年7月に完了した)。
1968年(昭和43年)10月1日
住居表示実施により、銀座西一丁目と銀座一丁目を統合し、これを改めて銀座一丁目(銀座二丁目〜銀座八丁目も同様)として銀座西が消滅(ただし東京高速道路下にある店舗などは未だに何区に帰属するか確定していないため、暫定的に「中央区銀座西◎丁目地先」と名乗っている)。
1969年(昭和44年)4月1日
住居表示実施済みの銀座一丁目に未実施の銀座東一丁目を編入し、これを改めて銀座一丁目(銀座二丁目〜銀座八丁目も同様)として銀座東が消滅。
歴史
江戸時代
江戸時代以前、現在の丸の内から日比谷にかけては日比谷入江と呼ばれ海になっており、その東には隅田川の運んできた砂によって江戸前島という砂州が形成されていた。その先端が現在の銀座にあたる[1]。
1600年、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利し、1603年に徳川幕府を樹立すると、第一回目の天下普請が行われ、日比谷入江の埋め立てと京橋地区の整備が進められた。1604年には東海道が整備されたが、銀座の都市基盤の整備は1612年の第二回目の天下普請まで待つことになる[2]。整備は、京間10間とした東海道(銀座通り)を中心にグリッド状に設計され、それぞれの街区の中央には会所地が設けられた。町割りは金座御金改役で家康の側近でもあった後藤庄三郎を中心に行われた。
町人地として整備が行われた銀座には、1612年に駿府にあった銀座役所(現在の静岡市両替町)が移転し、後の1800年に蛎殻町(現在の日本橋人形町一丁目付近)に再び移転するまで、銀貨の鋳造が行われた。当時、通町京橋より南一丁目〜四丁目までを拝領して新両替町と称し銀座人らが住居を構え、新両替町二丁目東側南角に常是役所、この北隣に銀座役所が設けられた。常是役所は現在の第一三共ビル付近、銀座役所は現在のティファニー銀座ビルの位置に相当する。1715年には大判座の後藤屋敷が一丁目に移転してきた。これらの場所は現在の銀座一丁目から四丁目にあたる。
現在の五丁目〜八丁目は、尾張町、竹川町、出雲町と呼ばれていた。現在の銀座七丁目付近には朱座が設けられた。また、徳川家康に親しまれ、幕府の式楽となった能の四座のうち三座も銀座に置かれた。このほかにも、槍や鍋といったものを供給する職人たちが多く居を構えた。
1657年、明暦の大火により江戸は大半を焼失し、銀座も大きな被害を出した。これを機に江戸の大規模な都市改造が試みられ、銀座でも三十間堀川沿いの河岸の増設や、道路の新設による街区再編などが行われた。
江戸時代の銀座は、御用達町人地として発展したものの「職人の町」としての側面が強かった。江戸研究家の三田村鳶魚も、京橋や日本橋よりも街の賑わいは劣っていたと、自著『銀座』内で語っている。
明治時代
銀座に転機が訪れたのは、明治維新後の1869年と1872年に起こった2度の大火だった。特に、1872年の銀座大火は和田倉門内の兵部省添屋敷から出火し、銀座一円が焼失するという大規模なものであった。そこで、東京府知事・由利公正の主導により、大規模な区画整理と、トーマス・ウォートルス設計によるジョージアン様式の銀座煉瓦街の建設が行われた。この政策は、火事の多かった東京を不燃都市化すること、また同年秋に開業予定だった横浜〜東京間を結ぶ鉄道の終点・新橋駅と、当時の東日本経済の中心地であった日本橋の間に位置する銀座を文明開化の象徴的な街にしたい、との思惑があったとされる。煉瓦街はまず1873年、銀座通り沿いに完成し、1877年に全街区の建設が完了した。
しかし、その一方で、住民たちは自らの住所に帰ることができなかった。煉瓦街の整理後も煉瓦家屋の払下げ価格が高価なうえに支払い条件が厳しく、多くの住民たちは銀座を後にせざるを得なかった。かわりに、他の地区で成功を収め、煉瓦街に進出してきた商人たちが銀座の表通りで商売を始めた。現在、「銀座の老舗」とされている店の多くは、それ以降に進出してきた店である。
こうして新しく出発した銀座には2つの特色があった。まず、実用品の小売を中心とした町であったこと。そして、京橋区という下町にありながら、顧客は主に山の手(番町、市谷、赤坂、麻布など)に住む華族や財閥といった特権階級(上流階級)や、中産階級、ホワイトカラーの人々だったということである[3]。当時の下町の人々の盛り場は、古くから栄えた浅草・上野だった。一方、明治維新後に東京へ出てきた人々は、同じく明治に入って急速な発展を遂げた銀座に集うようになり、こうした地方出身者と中産階級の増加に伴って、銀座も発展をしていった。
大正・昭和戦前
1923年9月1日に発生した関東大震災で銀座は町の大半を焼失し、壊滅的な被害を受けた。国の援助を受けて東京市は大規模な帝都復興計画を実施し、都市機能の拡充を行った。銀座でも、煉瓦家屋のほとんどの取り壊し、昭和通りの整備、晴海通りや外堀通りの拡幅が行われたものの、街区の整備に手をつけられることはなく、1872年の区画整理時の町並みが残された。
なお戸越の商店街は震災後の排水処理に困っていた為、銀座から撤去されたレンガを貰いうけて排水処理に利用した。この由来から『戸越銀座』と名乗るようになって、全国初の「○○銀座」となった[4]。その後、全国各地に「○○銀座」と名付けられた商店街が数多く形成されていくようになった。
震災後は、東京駅の開業に伴う丸の内の発展や東京市電の整備などにより、百貨店や劇場、喫茶店(カフェー)などが次々と登場し、震災恐慌や金融恐慌などで日本中が不景気に見舞われるなかでも発展を続けてゆく。昭和初期にはアール・デコの影響を受けたモダンボーイ(モボ)やモダンガール(モガ)と呼ばれる人々が町を闊歩し、散策する「銀ブラ」が全盛を極める。なお誤解されがちであるが、「銀ブラ」は「銀座をブラブラすること」ではなく、もともと吉井勇、菊池寛、芥川龍之介等多くの文学者がカフェーパウリスタの「ブラジルコーヒー」を銀座で飲むことから、それが一般化し言われるようになった[要出典]。この店は日本のコーヒー店の先駆けといわれるが、現在「あなたは本日、銀ブラを楽しんだ事を証明します」という、銀ブラ証明書というスタンプカードを発行している。
しかし、日本が戦争へ介入するに伴って銀座もその影響を受けるようになる。戦局の悪化に伴い1940年に贅沢品の製造販売禁止令(七・七禁令)や電力制限による広告灯・ネオンサインの消滅、1944年には警視庁によって劇場・料理店・待合芸妓屋・バー・酒屋が閉鎖され、銀座は大打撃を受けた。その一方で、軍隊の行進や、贅沢を諫める運動なども街頭で行われた。第二次世界大戦末期の1945年1月27日に銀座は初めて空襲を受け多数の死者・重傷者を出した。爆弾は泰明国民学校にも直撃し教員4人が死亡、2人が重軽傷を負った[5]。その後も3月10日、4月28日、5月25日の空襲で銀座は七・八丁目と六丁目の一部を除いて壊滅的な被害を受ける事となる。
戦後
第二次世界大戦が終わると、服部時計店、松屋や東芝ビルなど、多くの商業施設が連合国軍のPXとして接収された。その傍らで、銀座の復興も商店主たちの手によって着々と進められ、被災した商店はバラックや露店で営業を再開した。華僑・王長徳による一等地買占めが行われたのもこの時期である。1946年には銀座復興祭が行われ、銀座の復興は軌道に乗り出した。1951年にGHQの命令により露店は廃止になったが、その頃から接収解除になる建物が増え、銀座は賑わいを取り戻していった。
銀座は明治維新以来の事情から伝統的に不燃建物が多く、戦災を免れた建物も比較的多かったが、復興の過程では戦災を免れた建物もかなり多くのものが取り壊され、建物の(当時としては)高層化が進み、中央通り沿いの景観は、建築基準法(当時)の高さ制限100尺(約30メートル)で建物の高さが揃うまでになっていった。また、1964年の東京オリンピック開催に合わせて東京の都市インフラ整備も急速に進められ、1949年の三十間堀川の埋め立てを皮切りに、銀座を取り囲んでいた掘割の埋め立てが行われ、銀座西端の旧外堀、南端の汐留川、北端の京橋川を埋め立て、1964年に東京高速道路が完成するなど、掘割は道路へと変貌を遂げていった。
そんな銀座であったが、銀座には暗い影が忍び寄りつつあった。上述のように、明治維新以来、銀座の主要な顧客であり銀座の個性的文化を創ってきたのは、地方から上京して山手地区に住むホワイトカラー層であったが、関東大震災以降、山手の住宅街は、東京急行電鉄や小田急電鉄、西武鉄道等の沿線住宅開発により、武蔵野台地を急速に西へ西へと広がっていた。これら電鉄会社は、大阪の阪急電鉄に倣ってそれぞれの都心側ターミナル駅の繁華街建設を進めており、渋谷、新宿、池袋に代表される副都心の鉄道ターミナル繁華街が勃興しつつあったのである。山手線よりはるかに西に住むようになったホワイトカラー層の主力にとって、銀座は遠い繁華街になりつつあった。1964年のみゆき族、1971年のマクドナルド1号店の開店、1970年の歩行者天国の開始などを最後に、東京の繁華街の文化的中心としての銀座は、山手在住の若者文化の中心としての地位を渋谷(「シブヤ系」も参照)や原宿に、庶民的な要素も含めた総合的な筆頭繁華街としての地位は、新宿に奪われることになっていく。1980年代後半には、バブル景気に伴う地価高騰の象徴として、銀座の天文学的地価が連日報道され、高級クラブに代表される夜の街としてのステータスは盤石ながらも、総合的な繁華街としては首都圏における鉄道沿線文化の色分けに組み込まれていき、銀座は、茨城弁や千葉弁が飛び交う、東京東部の一繁華街に落ち着きつつあった。
1990年代後半になると、東京郊外の西への拡張が一段落し、都心再開発のブームが起きて、都心としての銀座が再び脚光を浴びるようになる。銀座の各所で再開発が促され、ヨーロッパの高級ブランド各社も銀座の持つブランド性に再び着目するようになった結果、海外の高級ブランド店が、中央通りや晴海通りなどに表通りに軒を連ねるようになった。他方、都心再開発は、遠く遠ざかっていた東京西部郊外の住民を、一定程度銀座にも呼び戻すことになった。彼らによって、総合的繁華街としての副都心の雰囲気が銀座にも持ち込まれるようになり、長期不況に伴う小売業態の変化も手伝って、ドラッグストアや飲食店のチェーン店なども開業するようになった。その結果、戦前や高度経済成長期のような「独特な高級繁華街」としての雰囲気は、随分薄くなっていると言える。
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さて池袋ってこんな街。。
池袋は、新宿、渋谷と並ぶ山の手3大副都心の一つ。池袋駅を中心に巨大な百貨店や専門店、飲食店などが局在する。池袋駅の一日平均乗降者数は約271万人(2007年度)。池袋駅西口および東口駅前に繁華街が広がり、北口および東口サンシャイン通り裏手、同明治通北側一帯には大規模な歓楽街がある。1日に約100万人の集客人員がある。
西口方面には東武百貨店、ルミネ池袋(旧称メトロポリタンプラザ)、東京芸術劇場、池袋西口公園等、東口方面には西武百貨店、池袋パルコ、サンシャインシティ、豊島区役所等がある。
池袋駅が8路線からなる巨大な鉄道ターミナルであるほか、池袋には周縁部を含め明治通り、グリーン大通り、春日通り、要町通り、劇場通り、川越街道などの道路が集まる。
池袋駅から少し離れると、立教大学(西池袋)、帝京平成大学(東池袋)、重要文化財に指定されているフランク・ロイド・ライト設計の自由学園明日館、多くの著名人が眠る雑司ヶ谷霊園などの緑や文化財も多く、池袋演芸場などの寄席や小劇場もある。
駅や街の至る所にある「いけふくろう」像は、「渋谷のハチ公に対して、池袋にも待ち合わせのメッカを」ということで、”いけぶくろ”と”フクロウ”を掛け合わせて考え出されたものである。特に、東口のものはJR発足時に設置されたものである。
その他
「ブクロ」と略し呼称されることがある。 東口には女性向けオタクストリート乙女ロードがある。
地名の由来
現在の池袋駅西口のホテルメトロポリタン一帯に存在していた、袋型の池が袋池(丸池)と呼ばれており、それが地名の直接の由来となったとされている。なお、池は縮小されるも近年までホテルメトロポリタン北側に空池(からいけ)の状態で残っていたが、現在は完全に埋め立てられ、地名由来とされる池を偲んで隣接地に元池袋史跡公園が開設された。
歴史
古くは武蔵国豊嶋郡池袋村といい、戦国時代の古文書である『小田原衆所領役帳』(永禄2年・1559年)には「太田新六郎 知行 三貫五百文 池袋」とあることから、中世にはすでに近隣の地名(長崎・雑司ヶ谷・巣鴨・高田など)とともに確立していたと考えられる。
明治に入り、1889年の町村制施行で、巣鴨村の大字となる。
しかし、池袋の地は古くは栄えているとは言いがたい農村地帯であった。ここが栄えるきっかけとなったのは、鉄道の開業である。上野駅〜前橋駅間に鉄道を開業させていた私鉄の日本鉄道が、1885年に官営鉄道(新橋駅〜横浜駅)との接続を目的に、現在赤羽線・山手線(埼京線)となっている赤羽駅〜品川駅間の路線を開業させた。だが、この時には池袋の地に駅は設けられなかった。
その後、1903年に田端駅への支線を建設することになった。この時、当初は目白駅での分岐が想定されていたが、地形の問題で池袋を分岐点にすることになり、池袋駅の開設に至ったのである。だが、駅の外に畑が広がっているという状況はなかなか変わらなかった。
大正から昭和にかけ、東上鉄道(今の東武東上本線)や武蔵野鉄道(今の西武池袋線)なども池袋へ乗り入れるが、これらはどちらも当初繁華街とはいえなかった池袋は起点とせず、当時の繁華街であった神田・巣鴨(市電が1912年には乗り入れていた)への乗り入れを前提としていた。その過程において池袋は仮のターミナル駅として開設されたが、その後の事情でどちらも都心への延伸を断念し、結果として池袋起点となったものであった。この頃は、巣鴨のほかに、白木屋があり王子電気軌道(今の都電荒川線、1911年に開業)と山手線が交差していた大塚駅辺りが繁華街であって、池袋は師範学校や立教大学など、学校が置かれたことから文教地区となっていった。
1933年に白木屋と京浜急行電鉄が共同で設立した京浜百貨店が1930年代に菊屋デパートの名で池袋駅に開店。そして東京市電(1943年に東京都電となる)が1939年に池袋駅前に乗り入れ、この頃から交通の結節点として、賑わいを見せるようになる。菊屋は1940年に武蔵野鉄道(現西武鉄道)に買収され、武蔵野食糧を開設。武蔵野デパートを経て1949年に西武百貨店と改称した。
また東武百貨店が1962年に本店を開店して1964年に東横百貨店池袋店を買収し、1958年に開店した東京丸物池袋店は1968年に西武百貨店に買収されパルコになった。
現在池袋と名の付く地区の大半は、一時期西巣鴨町に属していた。西巣鴨橋という橋が東池袋二丁目に現存する。サンシャインシティは巣鴨拘置所の跡地に立てられたものである。
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実際は「6年リース」だったりあんまり「ニーズの無さそうなモノクロの低速機」だったり、 「あれもこれも全部契約したら」安くなるということだったり みたいな感じなのでしょうか? 6年リース複合機 5年リース複合機 ・・・ ビジネスフォンならまだしも複合機で6年は長いと思います。(個人的感想ですが)
もちろんお客さまも賢くなっていますので、 無茶した会社の勝ちというわけにはいかないのでしょうが 当社は出来るだけ分かりやすい価格設定とサービスの内容をお伝えすることを大事にして 「な~んだ!そういうことか。」と お客さまに思われない広告宣伝をしていきたいと思っています。
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